だいぶ前のウォーキングの話。
一昨年の10月からウォーキングを始めたワタシの『いつかここを歩きたい』筆頭候補が、『自分が生まれた所を歩くこと』でした。
今の実家(神奈川県川崎市麻生区)は、ワタシが小学校3年の時に住み始めた家でして、生まれは東京都町田市木曽町。親戚がいる訳でもない元々縁もゆかりも無い公団賃貸団地でしたので、引っ越すと共にそこに行く機会は皆無。過去横浜方面の帰りとかに、車で団地の中まで入ってまたすぐ街道に戻るようなことを数回やりましたが、子供の時の思い出は公園やら通学路やらそういうところに転がっているもので、車だとよそ見もできないし味気ないんですよね。小2までの行動半径なんてチャリ使ってもたかが知れてるし。だから1度ウォーキングでじっくり生れ故郷を歩いてみたかった!
決行日は5/18だったか…?
駐車場は最悪以前の住処の目の前にあるスーパーでお買い物してそのまま停めさせていただけばいいと思っていましたが、スーパーの傍に立派なタイムズパーキングが出来ていたのでそこに駐車。
昔はオダキューOXというスーパーだったんだけど、今はsanwaですね。埼玉では全く見かけない、東京神奈川のローカルスーパーですね。
ここから90°右を向くと…
こちら(奥の棟)が我が人生で最初の住処。木曽住宅ロ―2号棟。
昔遊んだ近所の公園(カバの石像?があったので通称カバさん公園)はほとんどの遊具が撤去されシンプルな公園に生まれ変わっていました。
ここからまずは生まれた病院へ。
あるある。この町田病院で産まれました。
続いてバス通りへ。最寄りのバス停【三家】
そして今の住処小川町や現実家川崎市麻生区では中々見られないバス連チャン。
今でこそ時刻表はきちんと表記してあるようですが、昭和50年頃はどのバスが先着して発車するか分からないので町田バスターミナル行きのバス停には7~20時くらいまでかな?【2~3分置き】と書いてあった記憶が。だからこんな風に連チャンも当たり前。
三家より1つ町田寄りのバス停【木曽住宅】ここは屋根付きでベンチもある大きめのバス停。しかしここはほんのちょい遠いし、それ以上に乗客が多く列をなすので、その後ろに並んじゃうと座れる確率が低いのよ。バスが混み始める1つ手前のバス停から乗って座席を確保する母の強かさよ(笑)
木曽住宅バス停そばのマンション
酒屋さんが入っていた小さな商店街。子供の頃は炭酸飲料を買って貰えず、お正月だけ1リットル瓶のコーラ6本ファンタオレンジ6本の計1ダースをここの酒屋さんから取ってました。当時はペットボトルなんてないしね〜。
そして、当時の子供たちの社交場・駄菓子屋さんが入った【大和ストアー】というアーケードは住宅に変貌しつつあり…
調べてみると
2年くらい前に解体された様子。うーん残念。
コチラは団地の盆踊り大会や夏休み期間のラジオ体操の場所として通ったグラウンド?公園?
金属柵なんかは昔の青緑色の金網から進化しているけど、概ね当時のままな気がする。
さて、一旦sanwa前に戻って次は幼稚園方面へ。普段は幼稚園バスだったんだけど運動会やいもほり遠足なんかの時は親と一緒に歩いた記憶が…。
その途中、小学校の時のお友達がスケボーを買ったとかで、スケボーに乗せてもらってスッテンコロリンした忌まわしき事件現場に遭遇。
このガードレール(僅かに向かって左が低い形の傾斜)に沿ってつかまり立ちから手を離したらスケボーだけが傾斜にそって低い方へ下ってしまい『スッテーン』と(笑)ガキの頃から運動神経は鈍かったからなぁ┐(´д`)┌ヤレヤレ
ちなガードレールの向こうの窪地は昔ゴルフの打ちっぱなしでした。
さて、記憶では写真の右奥へ向かって真っ直ぐ、畑が多いところで左折して坂を下りていくと幼稚園の横に抜けた記憶があるのですが、宅地開発が進んで畑などありゃしない。ついでに渡った覚えがないそこそこ広い道が。いや、今はその道の存在知ってるしどこからどう繋がるかは予想つくから、確かにその道を突っ切らないと幼稚園方面に行けないことは分かるのだが…記憶なし。所詮ガキの頃の斑な記憶やね。方向だけは大体分かるからカンで路地を曲っては行き止まりやくるり一回りするだけの抜けられない住宅地を彷徨い、ようやっと幼稚園跡地のようなものを発見。
コイン洗車場ですな。右端に真っ直ぐ奥の方に抜けている道沿いなのは間違いないので、念の為ずっと歩いて行ったものの、大きな通りにぶつかるまで幼稚園跡らしきものは無し。ほぼここで間違いないでしょう【第二こばと幼稚園跡地】。この入口のスロープの上・平らになったところにマイクロバスが2台止まっていた覚えがあります。すぐ側に建設中の大きな道路がありました。まだまだ街並みは変わっていきそうです。
幼稚園跡地を見つけてゴキゲンになった後は、小学校跡地へ向けて歩を進めます。小学校【忠生第五小学校】は隣の団地【山崎団地】の端(木曽団地の端と隣り合っている)という立地で、木曽団地と山崎団地の両方の子が通っていました。
まずは山崎団地のバスターミナルへ向けて歩を進めます。
その途中、高低2段式の公園・当時【大公園】と呼んでいた公園を見つけました。
でも、大人になって改めてみると見るとあまり大きくない…。高低差、あんなに小さかったかなぁ?
大公園を過ぎると、団地間を掘り下げて真っ直ぐに突っ切る道路を歩道橋で渡る。
と言っても団地の地面から続いて橋になっており、階段とかは無いので学校前にあるような階段を昇降する橋ではないので楽チン。この綺麗な道路、新町田街道と言うらしい。
子供の頃はココ、黄色い土の上にススキが生えるだけのいわゆる造成地でした。そしてちょっと調べると、先程見つけた幼稚園跡地脇の建設中の道路に繋がるらしい。団地内の道路予定地は昭和50年位には確保出来ているのにそこから40数年経ってもまだ全通しないなんて、やはり人口密集地の再開発は難しいものだと痛感。
橋を渡り終えるとそこは大きな広場。
真ん中に何もない広場。そして外周にジョギング等が出来る遊歩道。ここで親父と補助輪なしの自転車練習をしたっけな。そして送電線すらない立地から、正月は凧揚げの場だったなぁ。当時は【ゲイラカイト】
が流行ってて、冬休みはみんなここに集まってた。自分は凧揚げヘタクソで、親父の方が喜んで飛ばしてたけど(笑)
ここを超えると山崎団地のバスセンターはもうすぐ。
バスセンター傍には今もスーパー三徳がありました。ナツカシイ!しかしもうひとつあった【ピーコック】というスーパーは無くなっていて、どこが跡地なのかも分からない。
そして、おもちゃ(と言っても火薬でパンパン音出す銃とか紐引っ張ってプロペラ飛ばすやつとかw)を買いに来ていた山崎団地名店街。
子供向けパチンコもここにあったなぁ。チューリップに玉が入ると板ガムが出てくるヤツw。うーん懐かしい。
ここからバス通りで西に向かうと忠生第五小学校跡地前のバス停。
確か反対車線のバス停は車が突っ込んでバス待ちしている5名位か死傷する痛ましい事故があったっけ。その場に行くと記憶の扉がパカッと開くもんだと実感。
小学校跡地は保育園に生まれ変わっていました。
門の反対側にあった朽ちかけた団地の案内表示に名残が。
下半分の台形のような土地が忠生第五小学校。
当時はこんな案内板知らんかったけど、新町田街道のところ、ちゃんと計画道路とか書いてありますな。ま、小学校2年じゃ計画なんて読めん気がするけど。
ここからは通学路を使って旧家・そして車の所まで戻ります。
歩道のある右側の坂道ではなく、左に見える階段が通学路。
こんな団地の中の遊歩道を通り、最初の方にでてきた昔【かばさん公園】だった所
に抜けてFinish!
しかしこれだけ想い出の詰まった場所をたっぷりウォーキングした筈なのに、
7.7km・10,763歩。少ねーっ!子供の頃の行動範囲がいかに狭いかを思い知る結果となりました。
それにしても、こんな独り言のような備忘録のようなもの、どこに需要あるん?ま、せいぜい姉と両親くらいかな?
ではでは神出鬼没の旅ブログ、今回はここまで!